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 明治43年に作製された、紐で綴られた手作りの小冊子「今井先生記念帖」なる、恐らくは一部しか残っていないであろう名もない追悼冊子の復刻版作成を次の二つの理由で思い立った。小数部数ながら、ハードカバーでケース入りの復刻版が立派に出来上がったと思っている( H.15.5.26.作成完 )。  復刻を思い立った理由はこうである。
 一つには、この度私は77歳で春の叙勲を受けたが、祖父清太郎は38歳で明治41年この世を去った。祖父の丁度2倍の年齢に達し、形式的には小さな勲章を受けたが、生きた中身の濃さと当時薫陶を受けた生徒たちに与えたインパクトの大きさを想うとき、馬齢を重ねた、我が身を恥じるばかりである。唯一残された小冊子をより多くの人々の目に触れさせたいと思った。5月23日この世を去った畏友豊田博夫は、32歳の若さで散った坂本竜馬を敬慕して止まなかった。人を感動せしめた偉人の少なからぬ人々が20〜30歳台でこの世を去りながらも、中身の濃い人生を歩んだ。
 二つには、上杉鷹山が興した藩学興譲館という教育の場は、脈々と受け継がれ、鷹山公精神は今に生きていることを、多くの史実・文献が伝えている。しかし、歴代興譲館中学(旧)校長の中で突出した傑物として知られる松山亮をして感歎の念を持って「序文」を認めさせた「今井清太郎の遺徳」を後世に伝えるこの小冊子の記事を、いま、私以外の者は目にすることは出来ない。公的に顕彰すべき史実を公にしていくことは、その文書を有している近親者の社会的義務であり、責任でもあると思うのである。   国レベルで知名度の高い郷土の人々と鷹山公精神との関わりを強調する余り、"「校長や教頭でもなかった一教諭」の遺徳を取り上げることに抵抗を感ずる"というようなことが、もし地元の興譲館精神(鷹山公精神)論者が密かに意識しているとするなら、それは鷹山公精神に最も悖るものと言わねばなるまい。因みに、週刊朝日2001年12月14日号に紹介されている『山形県立米沢興譲館高等学校』のなかで、 「興譲館舎監 今井清太郎」が舎生に与えた感化こそ、鷹山公精神の継承そのものである、と述べている。 " 家柄や身分に捉われない教育 "こそが鷹山公精神による教育のバックボーンであり、真の民主主義者・上杉鷹山としてケネディや内村鑑三を感歎せしめ、最も尊敬する日本人と言わしめた原点でもある。


米沢中学興譲館舎監
「今井清太郎追悼文集」の復刻