下 巻 ・ 序 文

  
創造的で自由闊達な「研究者の楽園」

                 志村 幸雄
 技術が経済を興し、経済が国を興すといわれるが、いま幕を閉じたばかりの二〇世紀の特徴を一言で表現すると、「技術革新の世紀」であったということだ。とりわけ第二次大戦終結時からの五〇年余は、エレクトロニクスを中心にした技術革新がもっとも華々しい展開を見せた時期で、我が国が一時的にせよ「日本の時代」と呼ばれる時代を迎えたのも、この分野の国際競争力で比較優位の立場を築いたからだ。

 日本が米国と並ぶ「エレクトロニクス大国」になった理由のーつとして、欧米先進国、なかんずく米国からの移入技術の受容と育成という事実を見逃すことができない。戦後の技術革新の象徴的存在である半導体に限っても、トランジスタ、ICの“生みの親”はあくまでも米国であり、それを下支えしたのは米国ならではの基礎研究への対応能力と革新型技術への挑戦意欲であった。

 これに対する日本の役回りは、米国発の技術をひたすら受容し、育成する立場にあった。他のいくつかの分野でも経験した「いつか来た道」である。日本の半導体産業が米国と競り合うようになった一九八〇年代半ば、米国の業界関係者が、「日本が成し遂げた独創的な開発はない」、「日本は物まねだけで輸出大国になった」などと、いささか過激に過ぎる批判の声を上げたのもそのためだ。

 しかし、本書に目を通せば一目瞭然とするように、我が国では、単なる模倣とか後追いを超えた、もっと創造的で正統的な研究開発活動が継続的に行われていた。実際、ここ電気試験所でも五反田の本部や神代分室では、第二次大戦中から「将来は半導体の時代になる」と見て、各部から集まった有志が研究会や輪講会のようなものを開いていた。これらの会合は空襲が激しくなる中で中止に追い込まれるが、終戦になると駒形作次所長の意向でいち早く半導体研究班がスタートしている。それも具体的な発足を見たのは、終戦翌年の昭和二一年三月というから、戦火の余燼がまだくすぶり続けていた頃である。ベル研究所によるトランジスタ発明の公式発表がそれより二年以上も後ということを考えると、この先見の明は高く評価されてよい。

 技術の連続性という観点から見ると、神代分室はもともと電子管研究の拠点として設置され、電子放射材料や光電材料、蛍光材料に関わる第一線の研究者が集まっていた。これらの材料の多くは、半導体としてのカソード材料は言うまでもなく、“半導体的な電気伝導”を示す特性を保持しており、半導体物性やデバイスヘの理解を深めるのに好都合だった。トランジスタなる命名が真空管の最重要パラメータであるgm(相互コンダクタンス)に基因していることを考えても、神代分室は日本の半導体研究の原点であり、母なる存在だったといえよう。

 こんな研究基盤があったればこそ、GHQ経由のトランジスタ発明の報にいち早く反応し、すぐさま研究を開始したのであろう。岩瀬新午氏らが日本初の試作に成功したのは、電気試験所の分割により誕生した電気通信研究所時代に入ってからだが、神代分室以来の研究人材や技術蓄積がなければ達成不可能だったに違いない。聞けば、トランジスタの試作が思い通りに進行しないのを見て、研究員の中には増幅作用自体を疑う向きがあったが、神代分室のさる幹部は、いい結晶を作り、理論に合った研究を進めれば必ずトランジスタ現象は出るはずだ、と言い切ったという。海のものとも山のものともわからないゲルマニウム片を相手に、ここまで口にできたのも、従来からの知識の集積や経験の積み上げがあったからであろう。技術の進歩が飛躍的な前進を遂げるためには、従来技術を究め、新技術の展開を予見したところに、その萌芽を見ることができる。神代分室は、そんなテーマに挑戦するための創造的で挑戦的な実験場だった。
 本書を一読して感じ取ることは、神代分室が日本のエレクトロニクス開発の黎明期を担う研究者たちにとって、自由な雰囲気と創造的な気風に満ちた。“楽園”だったことだ。前記半導体研究班の班長の任にあった関壮夫氏から先年、直接伺った話では、この研究班は終戦直後の約二ヶ年半、所長室を輪講室とし、ウイルソンの『金属と半導体の理論』やモット、ガーニー共著の『イオン結晶論』などを読み通した。その辺の模様は本書の中でも武田郁夫氏らが触れておられるが、所長の駒形氏も、班長ながら労働組合委員長を務めていた関氏も、そしてその他の所員も、新奇にして未知なる領域への好奇心をたぎらせて、知の探求を楽しんだようだ。もちろん、戦後の混乱のさなかだから、この輪講会に参加したメンバーの多くは、食うや食わずの生活を強いられていたに違いない。だが、技術パラダイムのー大転換を予知した俊秀たちは、魔性にとりつかれるように、この新技術の探求に走った。

 ベル研究所の新成果が伝わった昭和二三年(一九四八年)に電気試験所に入り、トランジスタの研究に取り組んだ菊池誠氏は、その著『日本の半導体四〇年』の中で、「杉田玄白たちがオランダ医学を学び始めたときの『蘭学事始』を、まざまざと思い浮かべた。それこそは、新しい科学、新しい技術、の世界への入り口だったことを知るのである」と述べている。ウイルソンやモット、ガーニーの物性論をひもとく研究者たちのひたむきな姿勢は、文字どおり『解体新書』の翻訳に取り組んだ蘭学の開拓者たちの姿と重なり合う。

 続けて菊池氏はこうも述べている。「トランジスタというものは、それを真似できるとしたら、それだけでも大したものだ、といえるようなものなんだ。……革新的な技術というものは、ただ真似をするのにさえ、非常に高度な能力と、社会の潜在的な力とを要するものだから」(前掲書)。戦後五〇年余を経た今日の日本は、米国に次ぐ経済大国にのし上がったが、二一世紀の日本を背負って立つ若い研究者や技術者たちは、はたしてこれに負けないだけの能力とエネルギーを蓄えているのだろうか。

 話が半導体中心になってしまったが、本来の研究目的の電子管の分野で、いくつもの独創開発を輩出したことにも注目したい。神代分室(電子管部)の前身にあたる第四部時代からの成果を含めると、マイクロ波増幅用の進行波管や別称「神代増倍管」と呼ばれた光電子増倍管、光電半導体利用の蓄積型撮像管などがあるが、特に進行波管の場合は、モルトン管にこだわっていた米国よりも実用化で先んじ、日本の先見性を世界に示すことになった。

 先見性といえば、昭和一〇年代の初めにあたる一九三八年に「光線通信の改良」なる特許が、関、根岸(後の清官)両氏の名前で特許出願されていることも興味深い。水晶のような透明な材料の長尺棒を用い、送信所から受信所に向けて通信信号を乗せた光線を送るというのだから、今日の光ケーブル通信をずばり先取りしたものになっている。
 自由闊達にして創造性豊かな研究集団ならではの成果というべきであろう。本書は、その研究集団の知的探求と行動の記録である。願わくば、二一世紀に生きる多数の読者の「温故知新」の資となれば幸いである。

 最後に、この膨大な記録を一つの理念をもって系統的にまとめられた編者らに心より敬意を表します。「明治は遠くなりにけり」と句に残したのは中村草田男だが、いまや戦後さえも遠い存在になろうとしている。そんな困難な状況の下、戦中から終戦直後を時代背景にした一研究所の記録がこれほど完璧な形をとってまとめられたのは、編者らの熱い願望と献身的な努力があったればこそである。日本のエレクトロニクスの前史を飾る一断面として、永久に読み継がれていくことを切に希望したい。
                                   (工業調査会 社長)