『あの本』に原稿を寄せられた方々の中には、2〜3回は原稿のやり取りをした方も少なくない。しかし、水間さんの場合は「あの数字が違っていた・表現が正確でなかった・・・・・・・」と言って、お詫びを添えた訂正の手紙を戴くこと凡そ10回にも及んでいる。原稿に取り組む真剣さがひしひしと感じられた。
 葬儀後の御長男のご挨拶で次のように述べておられた。『父は半導体の研究者・技術者として生涯を捧げ、半導体に関するデータや資料の収集・分析に最後まで生き甲斐を持ち続けた』と。まさに、その通りであったと思う。
 水間基一郎さんは、東工大卒業(昭和19年)後、国際電気(株)研究所に入られ、最初は薮本忠一さんのもとで酸化物陰極の研究に従事された。その後、電気試験所神代分室に統合後もしばらくはカリードの研究を続けられ、長年「電子放射研究会」のメンバーであった。半導体研究室に移られてからは、Ge,Siの単結晶成長の研究に没頭され、メーカに転じられてからもこの分野一筋に歩まれた。
 この5月奥様からホスピスに御入院と伺いながら、御見舞いにも行けなかったことが悔やまれてならない。
 私事にわたるが、戦後(昭和26年)各地に分散していた逓信省電気試験所の各分室が武蔵野市に集結した。その際、新婚家族約40世帯が共通の炊事場・トイレをもつ木造2階建て・ベニヤ仕切りの集合住宅で生活を共にした。水間さんとはこのベニヤ1枚を隔てた隣同士であり、当時水間さんの家にしかなかったTVで子供達と共にプロレスを観たことなども忘れ難い。