"天下晴れての叙勲"ということ

『源流』の出版に当っては、神代会会員であり、電電公社の大先輩(総務理事・技師長)でもあった小口文一さんに一方ならぬ御世話になった。 総務大臣および日本電信電話且ミ長から叙勲決定の通知があった際、真先にそのことを 小口さんにお知らせした。ただ、そのときに上で述べた叙勲基準の不明確さ(とくに学会活動での)に対するコメントにも触れた。これに対し、小口さんから立派な叙勲おめでとう、という祝意と共に『勲等については気になることもありましょうが、それは余り気にしない方がよいでしょう。天下晴れての褒章ですから。』という言葉が添えられてあった。 この小口さんからのコメントの後段の意味するところが叙勲の発表・伝達式・宮中拝謁という一連の行事を終えるに従い、私にも明確なかたちで実感されるようになり、『素直に今回の叙勲を感謝したい』という気持ちになった。そのことを最も強く感じさせたのは、叙勲の内容である。勲等の如何に拘らず勲記の大きさ、文面は全く同じで、授与される勲等の種類と名前が異なるだけであった。叙勲対象者が公務に服して仕事をしていた時のポジションにおいて、評価に値する仕事をしていたこと、に対する褒美である、と理解すればよいのである。どのポジションにどの位の期間在任していたかは、夫々に時の運があり、勤務先の事情にもよる。問題は、そのポジションにおいて、あるいはそれに至るまで、どれだけ評価に値する仕事をしてきたか、が問われているのだと理解した。 国立大学での勤務年数が短かった私の場合、電気通信研究所における仕事が主たる評価対象となり、『日本』という国がそれに対して分相応に評価してくれたものと思えばよい。大袈裟な表現かも知れないが、今回の一連の行事を通じ、古来からの伝統を引き継いだ『日本』という国の『国民』であることを改めて認識したように感じている。