中村修二さんが、幾つかの運に恵まれたことは既に述べた。武田郁夫さんもまた、その今日あるは、昭和25年不幸にもレッドパージにより電気試験所・電子管部を去らざるを得なくなった、というアンラッキーな出来事に起因している。人間、何が幸いするか判らない。
赤崎さんから直接伺ったお話で、次のような事実があった。多分昭和30年代終り頃のことと思われるが、当時の電電公社電気通信研究所(通称「通研」)・半導体部品研究室長であった橋本太吉さんが赤崎さんの研究能力を高く評価され、当該研究室への移籍を強く要請された。丁度その頃、半導体部品研究室が化合物半導体の研究にターゲットを絞った頃であった。
当時、通研から外部の大学や企業へ移る方は非常に多かったが、外部から通研に移ってこられる方は極めて少なかった。もと東芝におられ、「半導体」の権威であった小林秋男さんが北大より通研に移ってこられたことなどは、その数少ない一例であった。外部から通研へ移る際の障壁はかなり高いものであったが、赤崎さんはそのバリアを超える高い研究能力を備えておられた。 結果として、赤崎さんの移籍は実現しなかった。もし、これが実現していたら、恐らく今回「武田賞」に輝く栄誉は得られなかったのではなかろうか。
電電公社通研への誘いを断られた幸運